公益性 とは、人同士仲良くできるもの。(要素分析「共生」)

※公益性について書いていくシリーズです。前回の記事はこちら。

「共生」とは

ここまで、公益性の3要素という分析要素の話をしていましたが、2つ目の「共生」について書きます。定義は、「にんげん同士、お互いを尊重し、共に生きるという考え方」です。

公益性の3要素

この「共生」にはいろんな言葉がくっつきます。例えば「共生社会」。これは、いろんな種類のバックグラウンドを持った人が、共生しているという状況を指します。文科省では、「障がい者」とのインクルーシブ(包摂)教育と絡めて、障がい者も社会参加できるようにしなければいけないという話をHPに掲載しています。

さて、しまさんは「共生」の定義の中にとあるものを詰めました。ただ一緒に生活するのであれば、残念ながら地域などで実現しているのですが、それは「共生」というより、ただそこに「存在する」に過ぎないのです。なので、しまさんの定義では「お互いを尊重し」というフレーズを入れました。

お互いを尊重する、これは非常に難しいものだと思います。なぜなら、それは「相手を引き受ける、受け入れる」という「包みこみ」ができる必要があるからです。お互いを尊重することには、「違いを尊重する」「すごさを尊重する」だけでなく、「弱いところを尊重する」「できないことを尊重する」ことも含まれます。

共生とは

最近、社会で話題になる「格差社会」。「教育格差」「心の格差」「金銭的格差」など、問題は絶えません。

精神科医の和田秀樹さんの『この国の息苦しさの正体』でも語られていることですが、格差が生まれると、下のクラスに転落する不安が生じます。そして、その「不安感」によって、人は感情的になります。そして、マイノリティをいじめる(ヘイトスピーチや生活保護受給者叩きなどが一例に上がります)ことが発生したり、自分がよければそれでいいという思考に走ることになったりするのです。マイノリティいじめは、「違いを尊重できない」状態でありますね。まさに「共生」と真逆の状態です。

例えば、教育格差を例にあげましょう。NPO法人カタリバによれば、

子ども・若者の未来を生き抜く意欲や能力が、生まれ育った環境によって左右されてしまうこと

と定義しています。つまり、生まれ育ったバックグラウンドのせいで子供が(本来できるはずなのに)成長できない事態が起きているよね、という意味です。なので、NPO法人カタリバさんは、教育格差をなくすために、教育の機会を提供すること、それも教科教育ではなく、社会教育いわゆるキャリア教育について、多くの生徒にアプローチできるように活動しているのです。私も、こういうことに触れられれば、大学で勉強した後のキャリアはかなり違ったかもしれません。

格差をなくし、さまざまな機会を平等に得ることができれば、社会にいる人たちの間で多様性を認め合うこともできるし、人に与えることもストレスなく可能にできると思うのです。頑張れる人が頑張り、頑張れない人はしっかり助けられ、色んな人が受け容れ合って生活できる。それが実現された状態が「共生社会」、そのように進めていくために公益性の高い活動の中に共生という視点が必要になるのです。

さて、格差を例に、「共生」について書きましたが、ここからはさらに「共生」の要素について、下記2つについて書きます。

 

多様性

先ほどの「共生」の定義の話にも登場しましたが、「多様性」は共生社会を作るために非常に重要だと考えられます。

多様性にはいろいろなものがあります。人種(という表現は嫌いですが)、バックグラウンド、性別、国籍といった代表的なものから、ジェンダー、家族、嗜好、クセ、場合によっては障害などなど、ありますね。

では、定義はどのようなものがあるでしょうか?

人種・性別・年齢などに一切関係なく、すべての人々が自分の能力を活かしていきいきと働ける社会。

国交省「2030年の日本の在り方を検討するシナリオ作成に関する調査概要」より

これは、かなり「生産してくれるよね?みんな働くよね?」という少し脅迫じみたニュアンスが含まれてはいますが(笑)、色んな人が一緒に生きていける社会というのは、ひとつ定義としてあると思います。

社会の中の多様性があることを許容できる人で構成される社会。

茂木健一郎ブログ「社会の多様性と自分の可能性

これは、トリッキーな表現ですが、「なるほどな」と感じます。先ほど「お互いを尊重できる」ことが大事、と話題にあげましたが、すべての人間が、ほかの人の多様性を受け容れられて、さらに社会に存在するすべての多様性(特に個人個人の違いということ)を受け容れられるのであれば、多様性社会が実現されているという考え方といえるわけです。

最後に、しまさん自身の定義を置いておきます。

さまざまな環境で育った人たちが、それぞれのパワーを社会のために最大限に発揮できる社会

これは、さまざまな環境で育った人が社会にいる中で、できることや強いところはそれぞれみんな違うということを私が思い知り、であればその人のパワーを最大限発揮できることが一番じゃない?という発想から生まれたものです。

3つ、定義を上げましたが、「共生」とのつながりを考えると、例えばマイノリティを受け容れる、ということだけでなくそれぞれ「好きなように生きれる、息苦しくなく、生きれる」ことが必要になります。

では、多様性があることによるメリットとは何でしょう?主に下記の3つがあります。

多様性社会のメリット

まず、多様性を認めることで、多様な才能を発掘したり、開発したりできます。まあそりゃ、多様性があれば多様な才能ってつながるよねって話なんですけどね(笑)

とても有名な例をあげると、ピアニストの辻井伸行さん。盲目のピアニストとして有名になりましたが、それは、親が盲目だとかそういうことではなく、音感をもっている、というしっかり一つの才能を見つけ出して、一緒に努力しようとしたたまものだったというエピソードもいまでは有名でしょう。

別の例をあげると、鎌田實先生が書いたエッセイ『がんばらない』『がんばらないけどあきらめない』に登場する、病気や障害があっても何かひとつの才能を見つけて精いっぱい幸せを感じている人たちがいます。

すこし遠い話に感じるかもしれませんが、では近い話にしましょう。

現代の若者について書いた本にもいろいろありますが、本当に最近読んだ『モチベーション革命 稼ぐために働きたくない世代の解体書 』から考えたことをここにも書きましょう。

ひきこもりな人がYouTubeで歌を投稿していたらいつのまにか好きな人がどんどん増えてそれがそのまま音楽活動につながっていった米津玄師さんなんかはいい例でしょう。また、巷にいるブロガー(まあ私もですね)は自分の好きを広めて、それに共感する人たちが集まってきているのです。書いている主は男女はもちろん、年代、職業、生き方、考え方、その一つをとっても同じものはほぼないでしょう。

このように、多様性を認められる環境ができれば、より多くの人がいろんな環境で活躍することを受け容れられるようになるのです。

それは、社会の息苦しさの解消につながります。この話は次の利他主義の話をするときに一気に話しますね。

個人の生きがいの話は、再び『モチベーション革命 稼ぐために働きたくない世代の解体書 』に書いてある「乾けない世代」の話は示唆に富んでいます。

「乾けない世代」とは、言い換えれば「ないものがない時代に生まれた世代」です。生まれた時にはちゃんとした家もエアコンもテレビも、はたまたスマホも自由時間もあった世代なのです。そういう人たちに「稼げ!」といっても働きません。ステイタスに興味がないし、お金があっても満足しません。

多様性社会のメリット

んじゃあ、何なら働くねんというというと、「意味」を感じることだそうです。あとは「好き」を仕事にすること。ここに関しては、ぜひ本の方を読んでいただいた方がわかりやすいので、ここでは多様性と個人の生きがいの話にまとめます。

何が言いたいかというと、働き方自体、生き方自体、個人の自由に、そして人に喜ばれるようなことを、好きなようにさせてくれること。これが個人の生きがいにつながるということです。頭ごなしに「ちゃんとした会社に入れ」「ちゃんと結婚しろ」というのは、もう古いし個人の生きがいを消し飛ばす可能性があるのです。

私の大学の後輩に、大学で勉強するより、インターンの方が学べるしそっちを頑張ってます!という人がいました。(普通の)親が聞いたら「オイ!」と檄を飛ばされるコメントですが、しまさんにとっては「サイコー!そのままいこう」という感じです。だって、大学でやることないし、やりたいことやって楽しみたいという生き方を否定するのっておかしくないですか?(まあ学費は払っているので卒業は責任もってしなくちゃですが(笑))

再度言います。多様性をしっかり持った社会は、個人の多様な才能を発掘できる(社会から見た有利な点)と個人の生きがいが持ちやすい(個人から見た有利な点)ということが言えるわけです。

利他主義

さて、共生のもう一つのキーワード「利他主義」。意味を書いておきましょう。

他人の福祉の増進を道徳の基礎とする主義。

大辞林の定義

はい、めちゃくちゃ定義堅いですね(笑)

かみ砕いていくとこうでしょう。

人のためになることを進んでやっていこうぜ

どっかの田舎のヤンキーみたいな言い方になりましたが、進んで人のために行動しましょう、普段から人のことをおもって行動しましょうという道徳規範のようなものです。もともとはキリスト教の「隣人愛」的な道徳です。また、ガンディーも「すぐそばのものを助けよ」という言葉を残していて、利他主義の哲学と言われています。もっとシンプルに言えば助け合い、でしょう。

むずかしい考え方のときは、そうです。具体例から考えましょう。

小学生の頃、よく「足腰の弱いおじいさんおばあさんに席を譲りましょうね」と学校で習ったり、親に教えられたりしたことはありませんか?私はよく言われていました。これも利他主義に基づいた行動の一つです。この場合は「足腰の元気な小学生のみんなは、足腰の弱い高齢者に席を譲って、楽にしてあげましょう」ということなわけです。

ここで大事なのは、行動することよりも「思い」です。これがあると、「利他主義」にのっとった行動ができます。

上記の例なら、「思い」は「おじいさんやおばあさんを楽にしてあげたい」ですね。

こういった「利他主義」が社会にもたらすメリットも説明しましょう。

先ほど、多様性社会のところで、「社会の息苦しさの解消」が多様性のある社会では達成できるであろうと書きました。それは、多様性を認め合える社会というのは同時に「弱いもの」「いままで受け入れられなかったもの」を助ける人が現れていくということなのです。

学校のクラスを思い浮かべてください。あなたは本を読むのが大好きで、休み時間もずっと本を読んでいます。周りのクラスメイトはよく追いかけっこや一発ゲイで遊んでいます(というのは私の出身校だけですか?(笑))その輪にはいるのは難しそうです。私もそうでしたし(笑)

でも、クラスでワークショップをやると、普段話さない人と話す機会ができますね。そのとき、あなたは自分の知識をしっかりワークショップに役立てようとします。しかししゃべらないので「うざい」「インテリぶるな」といわれたらどうでしょう?あなたはやる気が出ますか?出ませんね。

一方で、ある1人が「そういえば、あなたはどう?」と聞かれて、しっかり答えて、「おお、なるほど!」とみんなが聞いてくれる。そうなるとそれぞれが尊重しますね。その人はどうして声をかけたでしょう?それは、「この人はもしかしたらはっきり意見があるかもしれない」と受け容れているからですね。

さて、社会の息苦しさはどうして生まれるのでしょう?これは、最初の部分でも書きましたが、「不安感」によるものが多いです。

「この人と絡んだら…」「なんだこいつは…」というのは、「この人と絡んだら、みんなから変なやつに絡む人みたいになっちゃう」「なんだこいつは、話を聞いてもまともなこと言わんだろう」という勝手な思い込みなわけです。不安だから行動にもできない。

でも、そこで「この人の意見も期待できそう」という思いが生まれると多様な意見を簡単に求められるようになります。

そんな思いがつながると、あなたはもっと意見をしっかりいうようになり、よりよい答えをほかの人が求められるようになり、あなたはよりよい答えを作り出したいと努力するでしょう。

さらに1人がこれを始めると、色んな人にチェーンのようにつながるようになります。そうやって助け合い、受け入れあい、尊重しあえると、社会の息苦しさも減り、人それぞれの生き方がより際立つのではないでしょうか?

利他主義

人のために何かしてあげたい、その気持ちをもっていること。それが社会を明るくしていくのです。

最後に

長くなりましたが、今回は「共生」について書きました。ワークショップをやったときから、読んだ本の量が増えた分、書いた内容も少し変わった気がします。(笑)

まとめると、

  1. 共生とは、「にんげん同士、お互いを尊重し、共に生きるという考え方」
  2. 多様性社会とは、さまざまな環境で育った人たちが、それぞれのパワーを社会のために最大限に発揮できる社会
  3. 多様性社会では、個人が生きがいをもって、社会で活躍できる可能性が広がる
  4. 利他主義が広まれば、多くの人が自由に語り、自由に生きていけるお互いを尊重できるようになる

このワークショップをやったとき、「多様性社会とは?」という問いを投げました。多様な意見がありましたが、私に響いたのは、「生きているのを楽しんで良いと認められる社会」という答えでした。

いまの人たち(しまさんももちろん含まれますが(笑))は、生きているのを楽しむだけじゃ不満で「それを誰かが認めてくれること」まで求めます。SNSやYouTubeなど、いろんな媒体がウケるわけはここにもありそうです。

そのためにも、お互いを認め合い、「共生できる」社会を作って、さらに良い社会を作るという共通目標に進んでいきたいですね。

共生社会のために

次は、「豊かさ」という軸で公益性を考えます。

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