結局、ボクらは理解はできない。でも努力はできる。#コモンビート
2月22日、ねこの日に、コモンビートの東京公演を見てきました。すでに去年の9月に1度見たので、2度目の鑑賞でした。
名古屋公演を見た時には、「僕らは【共通の鼓動】を手に入れるのか、【ただの混沌】に終わるのか」という話題で感想をブログにまとめてました。
僕らは【コモン】を創れるか【カオス】に終わるか。#コモンビート – しまさんのお寺今日、もう一度見直した時に、改めて歌詞もちゃんと聞いていて気づきが増えたので、再びここに書こうと思います。
「ボクらは他者の理解はできない」前提
以前、Twitterでこんなことが話題になっていました。
「つまり おっとり」 第20話を更新しました。#マンガボックスインディーズ https://t.co/aiaR2vCf4L pic.twitter.com/PvNIb3XgHW
— さわぐち けいすけ (@tricolorebicol1) May 14, 2017
さわぐちけいすけさん(@tricolorebicol1)という方のこのツイートです。
夫婦円満の秘訣に、「ボクの妻は他人だから、面白い」と。そして「相手が妻(または夫)だから○○を要求する権利がある」という考えは危険だ、永く関わるからでこそ、礼節を重んじ丁寧に接したいということ、をマンガを通して伝えています。
パートナー論と異文化理解は全く別物だけど、同じことじゃないかなぁと思った。
「他人」だけど、というか、「他人」だからリスペクトをする心意気をわすれない。ぞんざいにしない。他人だからでこそ「丁寧に接する」。
全く当たり前なんだけど、この「当たり前」も気づきが与えられないとわからないものだと思います。
劇中の歌詞のメインメッセージは「響き合おう、共通の鼓動を。心から届けよう」ですが、これが「俺たち人間は、響き合えるに決まってる」「だから君も心からお互いに」という思考はすごく危険だなとも思います。
(作品批判というよりは、もしそういう思考の人がいたら、という程度ですが。)
響き合おう、というのは、一方的なものではなく、お互いをリスペクトして、「丁寧に接して」、やっと、手に入りかけるものだと考えています。
ここで「てにはいり “かける” もの」と書いたのは、どんなに頑張っても「理解できる」ことはない、あくまでやはり他人なんだな、という前提を置いておくからです。でも響き合うことはたぶんできる。
でも、理解するための努力はできる

さらに劇中では、4つの大陸の間で、お互いの権力者によって戦争をするシーンがあり、そのあと戦争で荒廃しきったあとのシーンでは、「いまここから始めよう 次の時代を作るのは私たちだ 個性をたくましくもち、響き合う社会を目指す」というメッセージが送られます。
そう、令和になりました。
ボクらはボクらで時代を作ることになります。だから、その時代では「お互いの理解をしよう」という意味が問われているわけです。
でも、さっきの話の通り「他人を理解すること」は【不可能】です。
ただ、不可能、とはいえ、だから「やらない」のではなく、「お互いを理解し尊重していく」不断の努力をして、その結果でもやはり理解は不可能だ、ということではあります。
つまるところ、互いの理解をするための「努力」は絶対にできるし、その努力によって時代を、ボクらの社会を作っていかなければいけないのです。
「分断」という言葉が、社会の中の思想や宗教、場合によっては民族によって、社会が分断される、という意味でつかわれるようになって久しいです。さらにいえば、どんどん溝は深まるばかり。正直「もうお互い分かり合えない」というくらいかもしれません。
それでも、「互いの理解のための努力」はし続ける必要があるし、たぶん、それはただ見ているだけの僕よりもキャストとして参加されている方の方が理解いただけているのかな、と思いました。
個性が響き合う、とは?
最後に、僕があらためて感じたこととして、僕が思う「個性が響き合う社会」とは何なのか、まとめたいと思います。あくまでひとつの主張にすぎませんが。
個性、というのは、育った環境や選んだ道(場合によっては選ばされた道)によって気が付いたら出てくるものだと思っています。
僕の場合なら、
・お寺生まれ
・中高全寮制男子校出身
・元野球部
・ソーシャルに関心
・リーダーの実現したいことをカタチにする経験が多い
といった具合でしょうか。
こういう「個性」が「社会のために」、というか「世のため 人のため」に活性化され、いろんな人との対話を通して、広がって、強固になっていくこと、とここまで書いて、「なんでビジネスとか稼ぐとか、その前提で書いてしまうんだろう?」という自分にあきれていますw
違うんだ。
「個性が響き合う社会」、というのは「それぞれの人たちが、「それでいいんだよ」と認めあえて、「一緒に行こうよ」と誘い合える社会」なのではないかな?と思います。
その「行こうよ」の先に、未来があって、ぼくらは生きていくんだな、と思います。希望、それがあってこそ。未来に希望を持とうよ、という話はnoteにも書いたのでそちらも読んでいただければ、理解できると思います。
希望の数だけ、失望は増えるけど|しまさん|note 美しく輝く 真っ白なその花は|しまさん|noteというわけで、今回もありがとうございました。また会える日を。

1995年神奈川県川崎市のお寺生まれ。中高は全寮制男子校に6年間通い、その後横浜国立大学経営学部にて「宗教法人の情報開示 ~公益性の観点から~」をテーマに、ソーシャルセクターの中の宗教法人の情報開示を、公益性・社会性の観点から評価し、開示する方法を研究。その後はコンサルティング会社で働きつつ、「#お寺をアップデート」を合言葉に、お寺をソーシャルグッドな存在にするための方法や、お寺のこれからのカタチを発信している。また、実際にお寺の現場に訪問し、お寺のアップデートを実際に手伝うことも。詳しいプロフィールはこちら>>
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