お寺の幼稚園で育ったしまさん、教育を お寺 でやろうという理由

子どもと お寺

お寺 というと、お葬式する場所とか、なんか荘厳な場所とか、そういうイメージが多いと思うのですが、昔は子どもの教育をする場所でもありました。

お寺や神社との付き合いは、昔は「ゆりかごから墓場まで」で、読み書きそろばんもお寺の中でやってたことがあります。

関連記事

お寺3.0 お寺 の変化からイケてる お寺 を考えてみた。

読み書きそろばんは、本当に「教育」という感じですが、加えて道徳を教える場所とかでもあったのです。そんなお寺が、今一度教育に力を入れたら面白いな、という話です。

私は生まれたのがそもそもお寺だったのですが、そのまま自分のお寺が運営している宗教法人立の幼稚園に入りました。

幼稚園

当時、どのくらいの園児がいたかはおぼろげですが、3クラス30名はいたと思うので、3学年で180名の園児はいたはずです。いわゆる仏教保育の幼稚園で、5月4日の釈迦の誕生日「花まつり」では、自分のお寺の本堂に祭られるお釈迦様に甘茶をかけに、全園児が行きました。また、道徳の授業もお寺のお坊さん(もちろん父親)が話すことを聞いていました。

このように、お寺に生まれてすぐ関わる人もいれば、社会人になってから、親が亡くなって初めて菩提寺を知って、お寺と初めて関わる、ということもあるでしょう。

しかし、今の世代は、親が「宗教は危ない」「僧侶は金ばっかり」とまるでお寺に親でも殺されたんじゃないか?と思うようなコメントを普通に言う人が多い気がします。そうでなくても、無関心な方が多いのは間違いないです。

でも、お寺で教育を受けると、間違いなく、「感謝する」「素直に打ち込む」ことに長けてきたところがあります。冗談抜きに。

前置きが長くなりましたが、この記事でお伝えしたいのは、「お寺は教育に力を入れていくべきじゃない?」ということです。その理由は、3つあります。

  1. お寺は昔から教育することが役割としてあった
  2. お寺は社会の一部として、社会教育をすることに向いている
  3. お寺は地域性が高く、まちづくりと関係が深い

と考えられます。まだ事例がないのがなかなか難しいポイントですが、さっそく論じていきましょう。

お寺は昔から教育することが役割としてあった

 お寺 の寺子屋

 

みなさん、「寺子屋」ってご存知ですよね?小学校の歴史とか遅くとも中学校の歴史とかで学ぶ、「江戸時代の子どもの教育機関」と教わっているはずです。

実際、私の生まれたお寺の寺子屋は、近くの公立小学校のルーツとなっています。江戸時代には全国で約16000軒(!)の寺子屋があったそうです。

ちなみに、なぜ寺かというと、中世の頃(つまり室町時代)は学問を教える場がお寺だったからだそうです(Wikipediaより)そのため、お寺で教えるのがスタンダードになったようです。すべての寺子屋がいまでいう学習塾のようなものだったそうです。なので、何年で修了・卒業というのも統一されていないそうです。

寺子屋」では何が教えられていたかというと、いわゆる「読み書きそろばん」はもちろん、地理、儒学、歴史、古典も勉強させられていたそうです。とふと、「あれ、仏教学は?」と思った方。鋭いですね(笑)

もともと、今の小学校のルーツになるくらいなので、初等教育を最初に始めた教育機関、というもので、仏教教育をするための場ではなく、あくまでお寺を使って教える場としていたからです。たしかに、いろんなものがそろっているので合理的ですね。まず多くの子どもが入れる場所、物書きをできる経机があって、半紙などを用意すればすぐ学習できたわけですから。

つまり、現代でも十分その環境を整えることは可能だと考えられるのです。お寺というハコモノはすぐ用意できるし、教育の道具はお坊さん1人で十分だと思いますし、あとはいかに子どもたちをお寺に振り向かせるか、です。

現代においては、教育機関は学校が担っていますが、その学校のシステムに限界がきていることがいろんなところで騒がれています。

詳しくは次の項目で書きますが、道徳教育を教科科目にしたというニュースが昨年あり、実際今年から実施されているようです。まあ…効果は…うん。

学校の役割の限界

学校

そもそも、教育が学校で行われるのは、「社会に出る前段階として、社会で必要になるスキルを獲得してから社会に出てもらい、(形はなんであれ)活躍してもらう」からです。日本に生まれた子どもを全部横並びにするための場所ではありません。そのため、税金が使われますし、社会の成長に欠かせない要素のひとつです。しかし、現状、上手く学校教育が機能していないことを示すパーツが見えてきました。

例えば、日本の読解力が悪化しているというのが話題になっています。社会でも、上司や同僚の指示の出し合いが文字で行うことが増えている現代においてはかなりのマイナスです。

最近、『AI vs 教科書が読めない子どもたち』という本が話題になっています。この中に書いてある衝撃の事実は、AIはMARCHレベルの試験問題はゆうに解ける知能を持っていることではなく、「AIが苦手とする読解力の部分において、日本の子どもはAIに勝てない人が多くいる」ということです。

同様に、道徳が必修化(教科化)されましたが、こちらもうまく機能するかがかなり先生のスキルに依存してしまうという点など、不都合な部分が多いです。

教育の現場では、大変という声とともに、「教師の一方的な押し付けにならないかが心配」という声があるようです。

昔の「修身」、以前までの道徳と異なり、「議論の場を作って、教えるべき価値を教える」ことが目的となっているそうです。

議論することは大事ですが、結局「教えるべき価値」が国によって決まってしまっている点で、すでに悲しいことだ、そう感じます。だって、「価値」とは、その中で見つけられて、みんなで育てるから価値なのであって、上が勝手に決めるものではないからです。もちろん、犯罪を是認するわけではないです。というか、犯罪は価値がないというのは結論的に導かれてきているので、そもそも是認につながりません。

であるから、昔から教育を担ってきたお寺が部分的に教育を、もちろん社会教育に特化してできるようになれば非常に社会的意義、お寺自体の価値が上がるのではないでしょうか?

お寺は社会の一部として、社会教育をすることに向いている

今日、家に帰る間に、こんなツイートを見つけたので、つい絡んでしまいました。

私がサポーターをしている、NPO法人ひとまきさんの代表矢野さんとの一連の会話です。

そもそも、社会教育とは、「社会で生活するための知恵を学ぶもの」です。もちろん、道徳教育もこの中に入ります。

社会教育の定義を一応確認すると、

学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーシヨンの活動を含む。)

(社会教育法第2条)

(なんか違う…というのは置いておいて、辞書的定義見ましょうか。)

日本では学校教育以外の教育活動の総称

(ブリタニカ国際大百科事典より)

つまり、「学校教育」の補集合(学校教育以外の教育)を指すのです。

はい。私が言いたかったのは、「なにを信じればいいのか」「どう判断すればいいのか」「何が信念なのか」といった哲学的なことはもちろん、「なぜ挨拶が大事なのか」「なぜ勉強しなくちゃいけないのか」みたいな身近な疑問に対して、自分の答えを持てるように教育できること、それを教えてくれるのが「社会」という現場であること、それが社会教育なのです。

さて、会話の続きです。

本当にこの通りです。暮らしの中で学ぶことはたくさんあります。さっきのような「人と人の関係性」みたいなメタ認知はもちろん、「どうやって食べ物をとるのか」「みんなに愛されるにはどうすればいいのか」みたいなことは、社会の中でしか学べないし、教えられて身につくものではありません。

加えて、問題提起させていただいたのは、そういった社会教育の最後の砦は親だったはずなのですが、そもそも親が共働きで家にいない。したがって社会教育をする人が子どもたちの周りに少ないという状況(いるが安心してうけさせてくれる相手とは限らない)が起きているわけです。

そこで、お寺の登場…?です。


中間的役割、というのは、地域社会ほど解放されてない、学校社会や家庭ほど閉鎖されていない、いわゆる「お寺社会」を作り、そこで子どもたちと学ぶ、そういう環境を作ることが考えられるのではないでしょうか?

実際、そのように動いている宗教法人もあります。

具体的には、子どもたちの社会教育をしているてらこや活動という活動があります。

夏休みを活用して、子どもたちを寺に泊めながら、写経体験や読経体験のようないわゆるお寺体験という独自のものに加え、掃除、法話のように道徳を育てるような、まるで修行のようなことを体験できるプログラムとなっています。

では、これを日常できるようにするにはどうすればいいか?普段の生活に組み込めるようにプログラムを作ればいいのです。

あとは、子どもが気軽に来れるようにする、そのようなことも重要ですね。

寺は地域性が高く、まちづくりと関係が深い

さて、長々と書きましたが、このツイートに再度注目してほしいんです。

特に3段目ですね。「地域の中で暮らしや働き方が一気に学べると言う意味」とあります。これは、前項でも話したことも関係ありますが、まちづくりの面でも見逃せないことなのです。それはお寺ならなおさら。

お寺はいろんなコミュニティを持っています。そのため、地域に住んでいる人たちとある程度の関係性を持っています。また、地域の中でもある程度存在感があります。マンションやアパートが立ち並ぶ中、お寺のような建築物があると、やはり目立ちます。

地域性が高い、とは地域での存在感が高く、その地域を出ると一気に知名度や存在感がなくなるという点から考えられます。ようは、「その地域では名前言ったらわかる」程度ということです。

ちなみに、檀家さんは自営業の方が多く、お寺に出入りする業者も個人商店が多いです。よって、子どもと絡める可能性も高いです。なので、そういう人たちにいっぺんに話が聞けるという場としても機能するかもしれないですね。

話が脱線しましたが、そんな存在感があるお寺。まちづくりをするなかで、教育という視点を持つと、子どもがいろんな人に育てられている、いうなれば「まちが子どもを育てる」という発想にたどり着くわけです。(もし子ども中心にまちをつくれば、という話でもあるので、それはほかの人の方が詳しいと思います。)

そこで、お寺はどういう役割があるのか。それこそ「中間的役割」であるのです。つまり、色んな人と子どもをつなげるメディアであり、生き方を教えてくれる先生であることが求められるのかもしれません。社会が実践の場であれば、お寺はその前段階の場になるということでしょう。

まとめ

最後に、まとめます。改めて、「お寺は教育に力を入れていくべきじゃないか?」と思っている理由は次の3つでした。

  1. お寺は昔から教育することが役割としてあった
  2. お寺は社会の一部として、社会教育をすることに向いている
  3. お寺は地域性が高く、まちづくりと関係が深い

1つ目は歴史的な背景として、その役割を再度取り返すべきでしょう、という話です。

2つ目は、お寺は、学校教育ではカバーしにくい社会教育や道徳教育に向いている、またその具体的な内容について触れました。

3つ目は、お寺の地域性とまちづくりの文脈で、「中間的な役割」とは何なのかを考えてみました。社会ほどレベル高くないけど、学校ほどクローズドではないということです。

これらの理由については、より考察を深めたいと思います。ただ、お寺は「社会教育」についてより実現していく努力を払っていくべきでしょう。

別の機会に、「お寺が教育に力を入れていく」メリットについて書きたいと思います。

この投稿へのコメント

コメントはありません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

この投稿へのトラックバック

トラックバックはありません。

トラックバック URL