ブルーハーツの「青空」と戦争と

こんにちは。そろそろ8月に入ってきて、本格的な夏になってきてます。

さて、日本の夏といえば、海、山、川、そして「終戦」ですね(強引)

太平洋戦争の話は僕自身、関心を持っているというほどではないけど、知識・教養の範囲として知っている感じ。

時期だから、と言及することもあまりどうかなと思ってたんだけど、このような、すでに戦争があるとい事態の中で、改めて言及したいなって思ったんだよね。

戦争が今あるということ

この記事を最初にnoteにアップしたのは2年前の夏。今年の夏はさらに「このような事態」を指すものが増えた。それを指すように、今年3月のnoteの閲覧数はいきなり500PVを超えた。正直驚きでした。

だからこそ、終戦、太平洋戦争の平和の話をするよりも、もはや今ここにある戦争自体を語るべき時が来たのかもしれない。来てほしくもないのに。

このnoteでは、そんな昔、僕自身が聞いて、直接戦争というワードが入ってないのに「戦争」のことを歌っている、THE BLUE HEARTS「青空」という曲の歌詞を見返しながら話したものを書き直したものです。

この事態の中では、直接語ることに意味はない。そんなものはマスコミやメディアが、語ればいい。僕のような市井の人間にとっては、文字通り「所感」くらいを書いて、「意見」になるようなことを語ればいいと思います。「自由に勝手にやるさ」って感じ。

そんな「自由に勝手に書いた」noteを、改めてブログリライトしたいと思う。

「戦争の話」のなにがもやもやするのか?

改めて紹介すると、今回取り上げたい題材となる曲が、ブルーハーツの「青空」です。

曲の冒頭のフレーズはこんな内容になっている。

ブラウン管の向こう側
カッコつけた騎兵隊が
インディアンを撃ち倒した

ブルーハーツ「青空」より

ここまでは、映画をテレビで(なんとブラウン管!)見ている自分の話をしているだけなんだけど、次のフレーズで

ピカピカに光った銃で

できれば僕の憂鬱も

撃ち倒してくれればよかったのに

と歌っている。

多分、シンプルに、「勧善懲悪(?)」モノをみていて、「あー、僕の憂鬱も倒してくれたらいいなあ」なんて思ってることを歌ってるんだろうけど、ちょっと踏み込んでみたい。

「青空」に込めた「正義」と「戦争」

ひとつの考察として、この話がもし戦争の話だとしたら、どうなんだろう?と視点を加えてみる。

ただ新しい勢力(もしくは正義だと思っている勢力)が、古い勢力(もしくは正義側が悪者だと思っている勢力)を倒している、という構図を眺めているだけなら、「僕の憂鬱」なんて歌詞の話題にしなくてよいと思う。

ここでいう「僕の憂鬱」は、もしかしたら、「僕が正義だと思わないといけないこと」を、例えばマスコミとかに押し付けられている憂鬱なのかもしれない。そこからの逃避するための映画だったのかもしれない。

なにより、その正義が胡散臭すぎる、ということを次のフレーズで言っているともいえる。

神様にワイロを贈り

天国へのパスポートを

ねだるなんて本気なのか?

誠実さのかけらもなく

笑っているやつがいるよ

隠しているその手を見せてみろよ

「俺らは正義だ、社会的に良いことをしている」という独善性に、または「裏があるのにそれを見せずに(善意の表情で)何かをやろうとしている」という表裏性に対して、「もうわかりきってるのに、くだらない、憂鬱だ、そんなものを誰か打ち倒してくれないかな」と歌っているのかなと思う。

考えてみれば、戦争の始まりなんてそんなものだと思う。今回の某国の件も、「相手国にこういう思想がある、今すぐ除去せねばならない」という(一方的な)意見からスタートした。

これがまさに「独善性」「(善意の表情で起こす)表裏性」といえる。なんてわかりやすい例えが今リアルに存在しているのか、それに驚きである…

”いったいこの僕の何がわかるというのだろう?”

戦争の構造なんてわかりやすくて、「正義」が「強いか弱いか」で結局決まるのだ。「正義」が「マクロとして、地球視点としてよいことか」は(結論としては)省かれることになるのだ。

当時(1985~1995)くらいは、おそらく「自我」の時代、が始まっていたと思うんだけど(自分は残念ながら1995年生まれだ)、それをまさに表象するようなこのフレーズが刺さる。

生まれたところや皮膚や目の色で

いったいこの僕の何がわかるというのだろう?

正義において、「○○を代表して」「〇〇人として」という言葉が、今の言い方として言えば「大きい主語」に該当するような発言のされ方をすると思うのだけど、その集団において、勝手に言われた側にとっては「一体こいつにとって僕の何がわかるんだ?」と思うわけである。

僕は、この歌詞を最初に聴いたときに、いいなあと思う反面、「こんなこと言わないといけないくらい、憂鬱な時代なのか?」とも思った。だって、あなたのアイデンティティを勝手に見ためとか出身地とかで判断されきっちゃうんですよ?

その証拠に、歌詞の中でも

こんなはずじゃなかっただろ?

歴史が僕を問い詰める

まぶしいほど青い空の真下で

と。

僕らは「この青い空の下で」どうすればよいのか?

ここまで、正義の話とか、アイデンティティを損壊する「大きい主語」の話とか、ちょっとデカい話をしたんだけど、じゃあ「僕らはまぶしいほど青い空の真下で」どうすればよいのか、という話をして締めようかなと。

おそらくなんだけども、これからも「俺らは正義だ、社会的に良いことをしている」という独善性に、または「裏があるのにそれを見せずに(善意の表情で)何かをやろうとしている」という表裏性に対して、「もうわかりきってるのに、くだらない、憂鬱だ、そんなものを誰か打ち倒してくれないかな」という気分になるようなことばっかりだと思う。

現世は地獄だ。

だから、少しでもいい。

その「憂鬱」を外に出してほしい。どうして憂鬱なのか、なんでそんなに押し付けられなきゃいけないのか、正直に言い続けていければいい。

胡散臭いと思ったら胡散臭いと言ってやれ。

てめえの都合じゃねえと思ったらそう言ってやれ。

勝手に正義を名乗る代弁者にいわれる前に。

僕もたびたび言ってるし、ボヤキくらいでいいと思うし。

多分、ブルーハーツの彼らもそう思って、いるんじゃ、ないのかな。勝手な想像で申し訳なくて穴に埋まりたいですが。

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