「1から100」と「0から1」

「負けない」のはどちらだろう。

僕は。「勝ち負け」なんていう概念は必要ないと思う。あんなに人間を荒ませてしまう概念いらない。少なくとも、「勝ち組」という言葉が代表だけど、勝ちなんていらない。誰かが負けなきゃいけないのはおかしい。

でも勝負というのはどこにでもある。嫌いだからって避けれるもので無し。では、「負けない」というのはいかがだろう。

結構、組織や社会で勝負する羽目になるのは、「1から100に増やす」作業じゃないかなと思う。商品の営業もそう。なにか商品を競合他社と売り込みでコンペして勝負を決めることがあるが、あれは1から100に増やす過程で喧嘩しなくてはいけないという方式だ。

その点、「0から1」の作業、例えば新しいサービスを一から作る作業、なんていうのは喧嘩は不要、いろいろ議論はするけど楽しい。てか楽しければそもそも勝負なんて関係ない…という結論が言いたいわけではない。

社会にとっての「負け」

「0から1」の作業は、1ができたときに誰とも勝負しないでいろいろできるという利点がある。もっというと、それまでならほかのところがガンガン手伝ってくれちゃったことなんてのもある。

そもそも勝負してる時点で負けなのである。共生社会とか多様性社会とか言う言葉の下では勝負が生まれている時点でダメなのである。もちろん、執念さえあれば勝負に負けることはない(舩井幸雄「ベイシック経営」)。でも勝負が生まれた時点でもう負けである。なぜなら勝ち側と負け側ができるということは社会にとって良いことではないからだ。(あくまで経済学ではなくて社会倫理学的視点でしゃべってるので、経済の成長の敵なんていう話をする気はない。ちなみに縮小均衡したほうが僕は幸せが多いと思う)

だから、「1から100」よりも「0から1」の作業のほうが偉いとか、そういう結論じゃない。「0から1」を生めることがより社会的に進化するかもね、生み出した周辺の人たちが幸福になって、それが大量に積まれれば社会は幸福だよね、という結論を導き出したい。

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