甘いPOPソングよりも現代でサバイブする哲学を持ったロックが最高に癒されるっていう話

ここ最近、再びロックソング熱が高まってる。

特に、1980年代なので、THE BLUE HEARTSとかT.M.NetworkとかTHE ALFEEとかMr.childrenとかエレファントカシマシとかBOOWYとかはたまた忌野清志郎とかにハマってきてる。

冒頭に出したブルーハーツは別の記事で「ヒロトは最強の野生のブッダだ」っていう話と「今がサイコーだぜ」という哲学のごり押しが半端ないという話を書いたので、それについてはそっちを読んでほしい。

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そうではなく、僕自身がどうしてロックの方が熱を上げて聴けるのか、その理由を突き詰めたらこんな結論が出たんだよ、という話を書きたくなったので書いた。お付き合いいただければ非常にうれしい。

現代は「1億総死亡予備軍の時代」

正直、この見出しは過激に聞こえるかもしれないんだけど、僕自身本気で信じていることなので、冒頭に書きたい。

現代は「1億総死亡予備軍の時代」。

普通に意味わからないことを言っていると思う。冷静な僕が聞いたら頭おかしいと思う。

でもここでいいたいのは、ようするに、「現代は、生き残る(サバイブする)ことさえ難しい」という事実に気が付いた、ということである。

ある程度、数値上の裏づけもある。

2018年の人口動態(厚労省とりまとめ)によれば、出生数は921,000人、死亡数は1,369,000人。死ぬ人の方が多いという事実は、多くの人が知っているだろう。

また、自殺率は16.5%と、過去最少だが、19歳になるまでの自殺率は過去最高だ。

何が書きたいんだっけ。そうだ、「1億総死亡予備軍」の裏付けだった。ぜんぜん裏付けられてない。だめだこりゃ。

 

なので、ここからは僕が「死」がすぐそばにあるんだなーと思うことを書こうと思う。

僕は、いつか死ぬ。来年かもしれないし、2100年まで生き延びちゃうかもしれないし、明日かもしれない。いや、今すぐ、隕石が降ってきてつぶされるかもしれないし、強盗が突然入ってきてすべて荒らしていなくなっていくかもしれないし、もっといえばいまこのPCの電磁波で中毒になって死ぬかもしれない。肥満体質だから、生活習慣病で散々苦しんで死ぬかもしれないし、そうじゃなくて狭心症で孤独死しているかもしれない。

そう、死ぬ可能性なんてどこにでもある社会になった気がする。いや、昔からそうなのかもしれないけど、高校生くらいからずっと感じている。

この原体験は、もしかしたら小学校の頃に通読した、手塚治虫先生の『火の鳥』シリーズのせいかもしれない。永遠の命をもつ火の鳥の前には人間はゴミだ。あっという間に死ぬ。

そうだ、地球は100億年の寿命らしい。そんな100億年からみたら人間の80年(これからは100年らしいけど)なんて短いもんである。

しまさん
しまさん
そう、僕はいつか死ぬ。明日目覚めないかもしれない。いつどんな理由で死ぬかわからない。

この前の登戸の事件もそう、秋葉原の事件もそう。いつ刃物持った人が暴れるか、いつ電車でボン!となるか、わからない。

でも、死ぬことは絶対に信じられる。絶対に人は死ぬ。というか、生きとし生けるものは死ぬ。

だから、「1億総死亡予備軍」とかいう過激な言葉をここに置いておこう。

 

さっきリンクを貼った記事でも書いたんだけど、ザ・ブルーハーツの「ほんの少しだけ」(未公開の曲のため、YouTubeで残っているやつしか音源がないといわれている)にある歌詞にはこんなフレーズが。

ダイヤモンドの結末は 宝石屋でもわからない

100年たっても変わらないのか 100年以内に僕は死ぬ

永遠なんていらないよ 僕が欲しいのは 「今」

生きている間だけ ほんの少しだけ

ダイヤモンドの結末は、確かに見れない。地球の結晶であったのだから、そもそも人間より長生きだったのに、これからもさらに長生きなんだからそりゃそうなんだけど。

だから、未来の話なんか、本当は考えてられないし、僕が欲しいのは「最高に楽しい今」だと思う。

その「最高に楽しい今」は「生き残らないと得られない」のだから、甘い曲に包まれても安心できない。

したがってこうなるのだ。

だから、僕の癒しは、現代でサバイブする哲学を語るロックだ。

さっきも書いたが、1980年代のロックが好きだ。なので、THE BLUE HEARTSとかT.M.NetworkとかTHE ALFEEとかMr.childrenとかエレファントカシマシとかBOOWYとかはたまた忌野清志郎とかにハマってきてる。

1980年代は、そんなに生きることが大変だったのか?というくらいに「サバイブするための哲学」や「カウンターカルチャー」が克明にある。

例えば、最近久しぶりの映画がリリースされた「シティハンター」の主題歌「Get Wild」には、「Get wild and tough」と「Get chance and luck」の2個の英語のフレーズがある。まんま訳すとそれぞれ「ワイルドで、タフであれ(=粗くあれ、強くあれ)」、「チャンスと運をつかめ」とある。

つまり、「シティハンターとは」をつづっているんだけど、それってそのまま都会に生き残るための哲学じゃね?と思った。

また例えば、THE BLUE HEARTSの「未来は僕らの手の中」にある歌詞は、かなり示唆的である。

生きてることが大好きで 意味もなくコーフンしてる

一度にすべてを望んで マッハ50で駆け抜ける

くだらない世の中だ ションベンかけてやろう

打ちのめされる前に 僕ら打ちのめしてやろう

ここまでの心意気なら、確かに誰にもやられることはないだろう。絶対に生き残る。

また例えば、BOOWYの「MARIONETTE」は、「マリオネット(=操り人形)」に例えて、現代人を描いていると思う。(彼らはそうじゃないと書いているけどby wikipedia

まあ要するに何が言いたいかというと、結局「生きる」ことができなければ何も楽しめないし、今を生きることが一番楽しくできなければあんまり意味はない。だって、5年先のこと考えたら5年先に生きることになって、今を生きているわけじゃないでしょ?

とまあ、こんな言葉たちに癒されている。だって、いつ死ぬかわからないんだから、リアルに、限界までサバイブできるための考え方を知ることは、癒しであり、救いなんだから。

いつ死ぬかわからないし、それこそ「1億総死亡予備軍」なのだから、じゃあどうすれば「今をサイコー」に生きれるのか、それを突き詰めるのが最適じゃないかな、という結論が出た。

だから、最強にサバイブすることに特化して、その一瞬を愛し、その人を愛し、そしてその時間を愛する。ある意味「生きることに執着する」。

生き残る、今をサイコーに生きる。それを感じれるロックは僕にとって最高の癒しになる。

でももしかしたら、甘いPOPも、「死ぬほど愛したい」の果てにあるのかもしれないなあと。

その人を愛する気持ちは絶対に死んでもいいのかもしれない。

といいつつ、スキマスイッチの「パラボラヴァ」にはこんな歌詞がある。

時を止めたいだなんて 今は思わないんだよ

年を重ねる君を ずっと見ていたい

人はうれしいとき もう死んでもいいやって言う

でもノー!真実は違うはずさ

死ぬほど愛したい、けどそれで終わりじゃない。永遠じゃなくても今は続くのかもしれない。

そんなボヤっとした結論でこの記事を締めよう。僕には「現代を生きること」も「愛を語ること」も資格がないんだから。綴ることだけが今はできる。

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