救い を生み出すということを、野の医者の癒しから考えてみる
もくじ
「癒し」と「 救い 」
この前、『野の医者は笑う』という、本物の臨床心理士が沖縄のヒーラー(精神的な不調を特徴的な治療方法で治療する人たち)を巡り巡って、「癒し」について研究した本を読みました。そこから、「 救い 」について考えていきます。
この本の内容としては、「沖縄のヒーラーをひたすら巡る探検記」と「そこから考えられる癒しとは何かについて書いた論説」という2つの内容が織り交ぜられていて、探検記は軽く、論説は専門家としての分析が書かれていて、非常に興味深い内容でありながら、楽しく読めました。
さて、僕は、お寺は「救いを生むインフラになりましょう」という話を書いていますが、そもそも「救い」って何よ?という話をそこまでしっかりとは書いていなかったと思います。
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「癒し」も「救い」も似たところが多いので、ここで話題にしています。著者の東畑さんもこう語っています。
私は心の治療を宗教と同質のものだと思う。キリストだって、手で触れることで人を癒し、そのうえで癒された人をキリスト教徒に導いたのだ。
『野の医者は笑う』より
プロの臨床心理士の方が、こう言ってらっしゃるのです。
さらに
おそらく多くの野の医者が自分は宗教とは関係ないと否定すると思う。実際、彼らのほとんどは宗教団体に属していないし、宗教をうさん臭いものだと感じて、否定的だ。
本人たちの自己理解はそうであるにしても、野の医者の基本信念である「考え方が変われば、世界が変わる」という発想は、実は宗教由来だ。
最近話題の「テーラワーダ仏教」や「禅の思想」も、仏教という思想を使ってはいるものの、最終的に道を導くという点で、似ています。
ヒットする禅の本は、禅の理論を語るというより「禅の考えをとりいれれば、世界が変わる」という点で似ています。
つまるところ、癒しも救いも似ていて、社会的に求められているものといえるのです。
それでは、そんな「癒し」について書かれた『野の医者は笑う』をもとに、「救い」について考えましょう。
治療は文化によりけり
さて、この「癒し」から考えられる、「救い」について、下記のようなポイント3つでまとめました。
ポイントは3点。
- 「救い」は文化によって定義できる。お寺や神社という装置によって定義できる。
- 「救い」に絶対的な方法はなく、ブリコラージュでも救いは作れる。
- 「救い」は信じているから生まれる。信仰されるために語る必要がある。
治療は文化によって変わってくる。何が病気とされ、何が治療とされ、誰が治療者で、誰が病者なのか、そういうことが文化によってまったく違う。文化が治療のあり方を決めるのだ。(中略)
沖縄に野の医者がこれだけ大量に生息しているのはなぜか。(中略)
沖縄文化には、野の医者を生み出すような装置がセッティングされているのではないか。
「文化が治療のあり方を決めるのだ」というのは、例えば、仏教文化において、祈祷を行うことで清めたり、何か悪いことをする魔のお祓いをしたりしますが、その効果があるかどうかなんて、その場にいる信じるかどうかにかかってくると思いますし、お医者様から見たら、そのおかげで病気が治ったといわれても、「?」というわけです。
祈祷を行って魔を祓う。これはお寺や神社という装置によって定義された「癒し」または「救い」と言うべきでしょう。
仮説を借りると、お寺や神社のお祓いも、「その宗教によって定義された病者に対して、独自の治療を行っている」のであり、それに対してお金を払うということが成立しうる。なぜなら「治療されている」し、実際にその治療を受けて治っている人間がいるからです。
そういうことを考えると、お寺で生み出す「救い」は、お寺で生み出すからでこそ「救い」となりえるのではないか、ということも言えるのです。
もし、お寺であなたが「お香を使ったセラピーを」というときに、それはお寺でやるからその雰囲気を楽しめるし、癒されるといえるでしょう。
もし、お寺のお坊さんに「どうすればいいのか全くわからない、理不尽な悩み」を持って行って、お話して、お坊さんからヒントをもらって救われた!と思えば、それはお寺のお坊さんがやることによって救いを与えたといえるでしょう。
そう、お寺は「救い」を生む装置になりえる、ということです。それに気がついて動くかはまた別ですが。
ありあわせのもので、「癒し」を
ここまで、「癒し」について、治療は文化によって定義されるという話をしましたが、自由な文化のもとでは、自由に目的に合った治療が作られます。
2つ目は、そんな自由さから「救い」はどうあるべきかを考えます。
「野の医者」の治療は、自分にある「ありあわせのもの」で癒しを与えるのです。(これをブリコラージュ「日曜大工仕事」といいます。先生は下記のように書いています。
ありあわせのもので、目的を遂行する。それがブリコラージュだ。正式なやり方である必要はない。(中略)
そういうときに使われている知性を「野生の思考」と呼んでいる。(中略)
野の医者の知性は「野生の思考」なのだ。彼らは手持ちのものは何でも使う。使われる材料は、何も伝統的なものでなくてもいい。
自分の苦しさが癒され、他人の苦しさを和らげられるのであれば、彼らはリンパ・マッサージだろうが、オーラソーマだろうが、現代科学だろうが、目の前にあるものを使う。それも正式なやり方じゃなくていい。(中略)
蓄積された不幸と人生の危機をブリコラージュが救うのだ。
他人の苦しさが癒される(救われる)のならば、どんなものを組み合わせてでも、持っているものを全て使ってでも。
そしてそれが「正式でない」としてもかまわない。それがブリコラージュであって、そういう治療によって「癒し」になることがあるのです。
では、お寺で与える「救い」はこのくらい自由ではいけないのでしょうか?僕は全くそう思いません。
以前、「お坊さんのキャリアはいろいろになるべきだし、そういう人たちだから救いを与えられる人たちがいる」と書きました。
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お坊さんがキャリアや人生の多様性によって、救いを与えられる人がたくさんいるよ、という意味でこの時は書きましたが、さらにいえば、その人のスキルや経験を混ぜて「救い」自体の多様性を高めていく、これも重要です。
例えば、お寺のお坊さんとして、ブログライティングのセンスがあれば、ブログによって、救いを与えられる人がいるといえます。それは法話である必要はありません。ただ面白い、だけでも、笑って幸せになる、救われるのであれば、書くものは問いません。
「フリースタイルな僧侶たち」編集長の稲田瑞規さんは、こんなことをブログに書いていたりします。
【書いた!】
僧侶がお宅訪問して「開かずの段ボール」をご開帳していく連載企画。
今回はエロ漫画家のアシスタント経験のある女性から「過去のエロとどう向き合えばよいかわかりません」と依頼が来ました。
エロがあるから今の自分がいる。エロだってご縁だっていう話ですhttps://t.co/GbFRf6ahFw pic.twitter.com/DNgjEuIusW
— 稲田ズイキ(煩悩クリエイター) (@andymizuki) 2018年12月19日
これは、法話でも何でもない、「おもしろいからやってみた」ことにすぎないのですが、マンガを供養するということを通して、救われている方がいるのです。
これもブリコラージュの一種で、本当に手段を問うてないのです。
しかも、東畑先生も「野の医者」になる経験(マインドブロックバスターの講習を受けて、実際に認定される)を通して、補足しています。
私たちは今、軽薄でないと息苦しい時代に生きている。だから軽薄なものが癒しになる。
資本主義の現代では、「早い、安い、効く」治療がもてはやされる。そういうものを買うように教育(洗脳)されている人の傷は、同様にそういう風に治療される。
宗教による「救い」も時代によってアップデートされていくべきです。
何が癒すのか。何が救いなのか。
最後の3つ目は、この問いに東畑先生がどう答えたかを参考に、結局「救い」とは何か?についても考えます。
東畑先生は、こう書いています。
何が癒すのか。
この問いに対して、「上手に説明モデルを提示し、病者を説得することによって」ということができる。
信じているから、癒される。そのために、彼らは語る。(中略)
つまり、(心の治療とは)「無意識を意識化すること、無意識の自己実現を助けること、不適切な学習を解除し、適切な再学習を行うこと」という治療者の説明モデルがクライエントを巻き込むことで、治癒が生まれる、そういう結論だ。
ここで気がついた人もいるでしょう。「宗教もそうだ」と。
「野の医者」は、自分たちも苦しみから癒された経験がある、そして他者を癒して自分も癒すという点で、「傷ついた治療者」と表現されています。
病者を元病者のミラクルストーリーによって「こうやってはいけない、こうやって治るよ!」と説得して、病者は癒される、というのです。
宗教はどうでしょうか?
例えば、お寺のお坊さんが法話を通じて、「こういうことをするのではなく、こういうふうに生きていくのが良いのです」と語ること、それによって治癒が生まれる、巻き込むことで「救い」が生まれるという構造が考えられます。
つまり、「野の医者」の「癒し」の構造は、「宗教」の「救い」と似た構造なのです。
「信じているから、癒される。そのために、彼らは語る。」
信じている限り、というか信じることを通じて、「救い」は与えられます。これは、ひとえに信仰といわれます。
宗教に限らず、実は商品の購入も、極端なこと言えばお医者様の治療も、信じること(=信仰する)によるものです。
これは、僕の言説だけではなく、東畑先生も書いています。
医学はテレビを通じて、外科医の奇跡的な手術を喧伝し、再生医療の最前線での人知を超えるテクノロジーを盛んに広告してきた。臨床心理学もまた、出版物や講演で、自分たちの治療を素晴らしいものだとアピールしてきた。
私たちは科学を信仰する世の中に生きているから、それらをいかがわしくは感じない。(中略)
だけど、表面的な違いを取り去ってしまえば、実は私たちも野の医者も同じメカニズムにのっとって治療を行っているのではないだろうか。
だから、「救い」も信仰が前提となります。実際、お寺や神社にお参りに来たり、実際に檀家になっていたりする人は信仰しているので、「救い」を与えることに巻き込むのは難しくないはずです。
「救い」とは?
ここまで、東畑開人先生の『野の医者は笑う』の「野の医者」の治療によって与えられる「癒し」から、お寺が生み出す「救い」について考えてみました。
ポイントは3点。
- 「救い」は文化によって定義できる。お寺や神社という装置によって定義できる。
- 「救い」に絶対的な方法はなく、ブリコラージュでも救いは作れる。
- 「救い」は信じているから生まれる。信仰されるために語る必要がある。
このように、「救い」を生み出すことはそう難しいことではありません。だって、大量にいるであろう「野の医者」が「癒し」を提供しているし、それでお金をもらっているし。
癒されるという不思議
『野の医者は笑う』の著者の東畑さん(以下先生)は、大学院に5年通って、臨床心理士として活動しています。その臨床心理士がひたすらに「野の医者」、またの名を「(怪しい)ヒーラー」をめぐっている話なのですが、それは、本人が治療している患者に、「野の医者」の治療を受けて劇的に治った方がいらっしゃったことから、興味が始まります。
先生が「心の治療」のひとつとして、「野の医者の治療」を実際に受けたり調査したりするのですが、最終的には先生も「野の医者」の1人になるために教室に行くに至っています。「ミイラ取りがミイラになる」ですね。
ちなみに、「野の医者の治療」といわれてもピンと来ないかもしれないので、ここで補足。
先生がとりあげている「野の医者の治療」には、「オーラソーマ」「前世診断」「タロット」「レイキ」「クリスタル」などなど…。ひとつひとつ説明するのは難しいですが、イメージとしてはこんな感じの人たちです。
本当に占いに近いものから、自己啓発が混ざった人生を導く系のもの、体も一緒にマッサージなどで治療するものなど、多岐にわたりますが、何かの不安や何かのマイナスを取り除く目的でおのおのやっている治療のことを「野の医者の治療」とまとめて表現しています。
今まで、僕が「お寺は救いを生み出す社会的インフラになるよ」という話をしていて、実際そう信じているのは、
- すでに日本文化において装置として存在していること
- いろんな方法で試されて、実際に救いが生まれていること
- お寺の信仰は強い可能性が高いこと
から、結論付けているし、やろうと思えばデータの実証も可能です。
長くなりましたが、これを読んだお坊さんやお寺の関係者の方、ぜひコメントをいただきたいです。賛否両論あると思いますが、丁寧に読みたいと思います。
1995年神奈川県川崎市のお寺生まれ。中高は全寮制男子校に6年間通い、その後横浜国立大学経営学部にて「宗教法人の情報開示 ~公益性の観点から~」をテーマに、ソーシャルセクターの中の宗教法人の情報開示を、公益性・社会性の観点から評価し、開示する方法を研究。その後はコンサルティング会社で働きつつ、「#お寺をアップデート」を合言葉に、お寺をソーシャルグッドな存在にするための方法や、お寺のこれからのカタチを発信している。また、実際にお寺の現場に訪問し、お寺のアップデートを実際に手伝うことも。詳しいプロフィールはこちら>>
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