お寺 は原点回帰で一歩リードしよう

以前、NPOの原点回帰について書きましたが、同様に お寺 も原点回帰する時代になってきた、といえます。

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NPO の進化のためには、原点回帰が必要だ。 #NPO未来ラボ

お寺も、NPOも、社会のために存在するのですが、どちらもいよいよ転換期、というのが話題になりつつあります。

NPOはソーシャルセクターとしてソーシャルグッドな活動を続けていればなんとかなる、企業ができないけどNGOの届かない範囲を小回りきかせてやる、というものではなくなってきていて、同様にお寺はただ単に葬儀・法事をすればお金が入る、檀家がいれば、というのは終わりつつあります。

特に、葬儀への影響は非常に明確に出てきていて、「直葬」の登場や無縁墓の増加など、お寺がすべてやるのには限界があるうえに、葬儀社などの企業セクターがになうことが増えてきました。

つまり、今までのビジネス(および組織)モデルというのを転換する必要が出てきているのです。

実際、お寺という検索キーワードが伸びている点やお寺関係のイベントの参加者の増加などなど、そのように感じられる要素が増えてきています。

それは葬儀や終活とそこまで関係なく。

そういうイベントでは「終活」はそこまで意識されていないことが多く、現在の落ち着く場所、軸となる場所、安定したものとして欲しがられている、という実情があります。

さて、お寺とNPOの話をつなげるわけを最初に話しましょう。

お寺 とNPOの共通点

お寺

僕は、NPO未来ラボというオンラインサロンで、お寺枠の人として参加しています。

お寺がNPOと近しいと言い切れるのは、昔のお寺も、今のお寺も社会にとって欠かせない事業をしていたから、そして市民活動としての一面も持っていたからです。

言い換えれば、「社会公益に資する」組織の一つにいると言い切れるのです。

その欠かせない事業は、昔のお寺であれば、地域というつながりがなかったところに「お寺を中心とした地域社会を作る」役割をもっていた、そして安心感を提供していたことが言えます。市民がお寺を清潔にして、お寺は神様を守り、地域の安心感を生む。

一方、今のお寺で言えば、葬儀や法事において、故人を悼む重要な場面をしっかり送り出すという役割があります。

しかし、この機能はお寺がやるものではなくなりつつあるというのは先ほども書いた通りです。

そんなお寺の変化については下記の記事にまとめているのでいったん割愛します。

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お寺3.0 お寺の変化からイケてるお寺を考えてみた。

ここで書きたいのは、NPOとお寺は似ている以上、同じような進化を想定して、「原点回帰すること」が必要といえるのです。

NPOはもともと、地域の市民に、市民たる自覚を持たせるような活動をする、具体的に言えば近所が汚ければ掃除をしたり、困っている高齢者がいたらそれを支援する活動をお互いにするというのが原点でした。

お寺はもともと、地域の市民を仏様や神様の下に集めて、不安がある人は救い、その集まった人たちの間で助けあうという、いうなればひとつの「地域」を形作るのが原点といえるかもしれません。

だから、NPOの原点回帰と、お寺の原点回帰は、つながってくるのです。

では、お寺の原点回帰するために考えなければいけないことは何か。

宗教法人とは、何のためにあるのか?」を模索しなおすことです。

いま考える「宗教法人とは何のためにあるのか?」

この疑問は、答えがないのですが、ヒントならいくつかあります。

お坊さん

僕が以前書いた記事にこんなことが書いてありました。

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宗教 はそもそも、どんな役割があるんだろう?お寺生まれが考えてみた

宗教には3つの役割があると言えます。

  • 心が落ち着く、ホッとする考え方を教えてくれる。よりどころを与える。
  • 自分の生き方を導く、考え方を教えてくれる
  • ほかの人を救う考え方と実践の仕方を教えてくれる

これをまとめると、「人間に精神的価値を与える」という点が抽出されます。

これが言えます。

1つ目の「よりどころを与える」は、本来仏様を拝む場所ですから、当たり前っちゃ当たり前ですが、その手前の「心が落ち着く、ホッとする」場にお寺がデザインされているでしょうか?

これを率先しているのが、やはり浄土系の仏教における「他力本願」です。

人がいかに努力しようとも、理不尽から免れることもないし苦しみは絶えないから、最強の存在である仏様に全て委ねて、救ってもらおうという考え方です。

これの良いところは、「誰であれども救われる」ことです。

すがりたい人は一般の人とも限りません。(法的かそうでないか関係なく)罪を犯した人、生まれつき障害のある人、生きているうちに何かマイナスを抱えた人、のほうがすがる人は多いはずですが、それを追い出していませんか?仏様は「誰であれども救う」のです。

お坊さんも十分すがる対象なのでそこも忘れずに。

2つ目の「考え方を教えてくれる」は主には経典だったり、お坊さんなどの教えから、幸せに生きるとか正しく生きるとかをできるように導くことです。

これの先進例はやはり「」でしょう。

「目の前のことを全力で楽しめ」「弱みもすべてさらけ出せ、楽になるぞ」など、人生を楽に幸せに生きることの教えをはじき出しているのが「」思想であり、現代の仏教ブームのひとつの時流ともいえます。(明らかに最近の書籍数が多いのと、自己啓発ブームに乗っかれていることが事実としてあります)

そういうのを、お坊さんが自ら教えて、実践しているでしょうか?お坊さん、あなたはその仕事や生活で幸せですか?

3つ目の「ほかの人を救う」ことは、そんな実践のうちでしょう。

大昔、行基がいたころ(奈良時代!)は、お坊さんがお金を集めて公共事業であるインフラ整備を指揮していた、なんていう事実もありますが、そうでなくてもお坊さんがボランティアに参加しているということは最近もあります。特に、青年会が集まって、災害支援をするということもあります。

ただ、そのことよりも重要なのは地元の人たちとともに地域コミュニティを良くしていくことを啓発したり実践したりすることです。(これはNPOに近いものですが、コミュニティを抱えているお寺でも必要です)

お寺のお坊さん主導で、地域の掃除をするでもいいですし、地域のおじいさんおばあさんの話を聞きに行くでもいいです。

それが例えばどう「仏教とつながるか」を説明しながら実践すれば、おのずと良さに気づいたり気になったりする人が増えます。そして相互に助け合いを始めていくようになります。

その果ては、相続で争いそうとか人間関係で死にたくなったとかを、地域で包摂できるようにすることです。お坊さんがやることじゃない?でもお坊さんって人を救うためにお経とか唱えてるんじゃないんですか?

ここまで、3つのヒントから「宗教法人とは、何のためにあるのか?」という問いを答えてみました。

救いを提供するという原点回帰

原点回帰

あらためて、お寺は「救いを生み出す」場所にしてほしい、そんな強い思いが私にはありますが、それが宗教法人の陰りから脱出する一つの大きな原点回帰だと考えます。

お寺は、形や方法、担い手によらず「救いを生み出す」場所になること、それがもともとのお寺のミッションを果たし、原点回帰していく、場合によってはそれが求めるニーズに合わせて変化させていく。時代の変化とともに、変わるべきところは変わり、原点回帰すべきところは原点回帰する。

それは大きな変化のようで、でも本来やっていくべきことをできるようにしていくだけのことです。

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