【お寺息子の宗教論】人の幸せを願うことから始めよう

ボクは実家がお寺ということもあり、「何かを願うこと」「なにかに祈ること(特に仏様)」が習慣の中にあるし、ごく自然なことだと思っている。

高校の頃、大学受験を受ける年に、試験の3か月前から毎朝5時に起きてお経をあげて、それから勉強してたことがある。

実家に住んでいる頃から、今も、(というか今日も)出かける前には仏様に合掌して「行ってきます」を伝えて出かける。まさに自然だった。

大学時代の研究が「お寺の公益性」になったのも、ある意味必要必然だったのかなとも思う。「宗教は幸せを作る」と本当に思う。

この記事では、ボクの宗教観の話と、「まずは人の幸せを願うこと」が社会貢献の1歩なのかな、という考察を書こう。

「タガタメ祈るのか」?

実家がお寺なので、毎朝おつとめでお経を僕があげていたか、、、と言うとそれはない。残念。でも毎朝お堂の前で「いってきます」を言ってから出掛けてた。今もそう。

こういう個人の祈りも、お寺は受け入れていければいいなと思う。

逆に言うと、お寺(または宗教)ができることはもしかしたら「祈り」を作ること、そして「親身たること」かもしれない。

いつから、お寺は「敷居が高い」といわれちゃったのだろうか?とも思うが、その反省はいまいろんなお坊さんの活動で変わってきている。僕もそこにチャレンジしている。

個人の時代には、個人の時代の宗教の形があっていいと思うんだ。

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「タガタメ」から考える祈り

ミスチルの「タガタメ」という曲にこんなフレーズがある。

子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
でももしも被害者に 加害者になったとき
出来ることと言えば
涙を流し 瞼を腫らし
祈る他にないのか

意味にそこまで深く介入する訳では無いんだけど、「祈り」の本質ってこういうことなのかもしれない。

ボクにはどうにもならないけど、何かを救う、場合によっては自分を救う、それが「祈り」かもしれない。

なにができるでもない、ただ誰かの気持ちに寄り添うために祈る、自分ごととして祈る

だから、「いってきます」でも「ありがとう」でも「南無妙法蓮華経」でも意味は変わりえないと思う。

それの祈りが「誰がためであっても」。

ただ幸せが一日でも多くそばにありますように

「タガタメ」は悲嘆の祈りかもしれないけど、じゃあ「幸せを祈る祈り」はないのか?いや、ある。というか、宗教のお勤めもホントはそっちが本質である。

ボクは星野源さんが大好きなんだけど、その「祈り」的要素をすごく掴んだ曲が「Family Song」だ。

日常が歌詞で綴られる中で、サビに入るとこんなフレーズがある。

夕方のメロディに
想い乗せて届けてくれないか
ただ 幸せが
一日でも多く
そばにありますように
悲しみは
次のあなたへの
橋になりますように
遠い場所も繋がっているよ

僕がこのフレーズから感じたのは、「日々僕が、またはお坊さんがおつとめしたりお経を唱えたりするのってコレのことでは?」ということだ。

まさに「宗教の本質」をついているのでは?

「ただ 幸せが 一日でも多く そばにありますように」と、日々祈ること。それがホントに誰かの支えになるための「宗教」だったのではないか?

聖武天皇が日本で大仏を作ったのも、行基上人が日本中を回って社会事業を通して仏教を広めたのも、そして鎌倉新仏教を創始したお上人方も、ホントは「ただ 幸せが 一日でも多く そばにありますように」と天下万民一堂に祈って欲しくて、そうなって欲しかったのではないのだろうか。

そして、仏教が葬儀の世界に入っていったのも「悲しみは 次のあなたへの橋になりますように」と引導するためのものだったのでは。

星野源さんのこの歌詞に勝手に宗教の存在価値について見出してしまうくらいには、「宗教の本質」に近いものを感じた。

そんなことを考えさせられるような歌詞だった。

日常から宗教がここまではがされているので、あまり認識できないのかもしれないけども、実は僕らは「宗教」的なものとはフレンドリーに付き合っているのである。

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今日も、誰かのために。

ここで出したい結論は、

「だから宗教を教育に取り込め!」

ではないし、

「これだから仏教は頑張らなければならない!」

でもない。

もちろん、必要な議論だと思うし、僕自身主張していかないといけない部分もあるんだけど、この記事で書くことじゃない。

ここでまとめたいのは「人の幸せのために、願うこと、祈ること」自体がすごく価値あるものではないだろうか、ということである。

祈りとは、すぐできる社会貢献

日々の祈り、それ自体に力はないかもしれない。いや、現実に大きくはない。

でもその祈りを通して、人を慮ること、思いやること、その気持ちを持つことが社会貢献なんだ、と思う。

例えば、「きっかけ食堂」さんみたいな活動も、一種の祈りである。

きっかけ食堂とは

全国各地で毎月11日に開く、東北酒場。東北の食材を使った料理やお酒を提供し、その味を通して、毎月11日だけでも東北や震災について考える「きっかけ」をつくりたいと、2014年5月に立命館大学の学生三人が立ち上げた団体です。

その「東北や震災について考えるきっかけをつくる」ということが、まさに「人の幸せのために、思ってあげること」であって、震災のようなことの後で考えると、「悲しみは 次のあなたへの 橋になりますように」ということなのかもしれない。

僕らは、何かお金が出せるとか、何か手を差し伸べてあげられるとか、そういうことでしか「社会貢献できない」という、呪いにかけられている。

本当は、誰かの幸せが続くことを祈ってあげる、思ってあげる、そしてそれが行動に移せること自体が十分社会貢献なんだと思う。

だから、僕は今日も「誰かの幸せを思うこと」、そして「祈ること」を続けていきたい。

お坊さんって、そういうお仕事なんですよ?お寺って、そういう場所なんですよ?

そんなことをみんなにも知ってほしい、そんなことも思います。

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